鬼滅の刃原作5~7話感想 ただの修行回ではない。鱗滝さん錆兎、真菰の思いが収束するジャンプ至高の努力回
岩を斬ったり破壊する修行って、バトル系の漫画で定番ですよね。ありがちじゃないですか?
なにかコツとか理屈に気がついて、ひたすら修行して、見開きページでド派手に岩をぶっ壊す、ようなイメージ。
使い古されたのか、最近の作品だと、そういったシーンを見たことはないです。昭和とか平成初期の作品に良くあったという勝手な印象です。
良く言えば、色んな作品で使われるくらい分かりやすいシーン。悪く言えば、使われ過ぎて現代では真新しさを感じないシーンです。
鬼滅の刃の序盤でも岩を斬ると言うエピソードがあります。
炭治郎は鬼と戦うための修行を鱗滝さんに一年間つけてもらいますが、鱗滝さんは「もう教えることはない」と言い、最後に大岩を斬る課題だけを残して去ってしまいます。
さらに半年間、鱗滝さんに教わった修行を続けますが、岩は斬れず炭治郎は焦り、自分を大声で激励します。
いつの間にか岩の上に狐の面をかぶった錆兎という少年が現れると、炭治郎を叱咤した後、木刀で襲ってきました。岩を斬ったという錆兎は炭治郎を叩きのめすと、これまたいつの間にか現れた真菰という少女に後を託し去っていきます。
目を覚ました炭治郎は錆兎の技の凄さを真菰に話し、真菰は炭治郎の悪いところを教えてくれるようになります。
それからも必死の鍛錬を続けますが錆兎には勝てませんでした。
『腕が足が千切れそうな程、肺が心臓が破れそうな程、刀を振ったそれでも錆兎には勝てなかった。半年経つまでは。その日俺が挑みに行くと錆兎は真剣を持っていて』
というモノローグとシーンに続きますが、炭治郎がついに錆兎を超えるシーンで、今まで木刀だった錆兎が真剣を持っているのには、ある種の完璧さがあります。
このシーンで錆兎が真剣を持つのは当たり前の表現、”逆に木刀を持ったままなのはあり得ない”。
真剣に持ちかえているのは予想の範疇、だけど何故か熱い。予想の範疇? いやこういったシーンを必然と言うのでしょう。
私はこういう王道の中の王道、分かっているのにテンションが上がるようなシーンが好きです。
『この日この瞬間初めて、俺の刃が先に錆兎に届いた』
漫画中で錆兎と真菰は唐突な登場をし、背景には常に濃い霧が漂っています。二人との鍛錬は、どことなく現実ではないのだと言う事が暗示されています。
『気づくと錆兎は消えていて、錆兎の面を斬ったはずの俺の刀は、岩を斬っていた』
なんだか読み返すほど、不思議な感慨がわくシーンです。
その後7話にて、炭治郎は、錆兎と真菰を殺した因縁の鬼と対決します。死闘の末、炭治郎は鬼の急所である首に狙いを定めます。
この鬼は鱗滝さんに恨みがあり、鱗滝さんの弟子を13人も殺してきたのです。
弟子を失い続けた鱗滝さんは、本当は炭治郎を鬼狩りにさせるつもりは無く、わざと無理だと思う大きさの岩を最後の課題にしていたのでした。
鬼の首は非常に硬く、岩を斬った錆兎ですら斬ることは出来ませんでした。
霧の中、真菰が錆兎に「やっぱり炭治郎も負けるのかな? アイツの頸 硬いんだよね……」と不安をもらします。
凡百の言語感覚だったら、炭治郎なら勝てる、的なニュアンスの返事になるのですが。
「負けるかもしれないし勝つかもしれない、ただそこには一つの事実があるのみ。炭治郎はだれよりも硬く大きな岩を斬った男だということ」
と締めくくり、炭治郎が技を放ち7話終了となります。
弟子を失いたくない余りわざと無理な大きさの岩を課題にした鱗滝さん、それでも岩を斬った炭治郎、炭治郎を支えた錆兎と真菰の思いが全て収束し、因縁の敵との決着を持って、修行回が終息したのだと思います。
また、ファンの間では5話の岩を斬るシーンは一刀石の伝説を元にしたのではないかと言われています。
柳生宗厳という武将が木々の茂る山奥で修行をしていると、夢か現か、どこからともなく天狗があらわれ、対決することになりました。
勝負は一瞬、一刀のもとにその天狗を切り捨てるのですが、気がつくと、斬ったはずの天狗の場所には、真っ二つに斬り裂かれた巨石があったというものです。
親だけが持つ子供に期待する気持ち それは苦労して、お金をかけて育てたことへの見返りを期待しているのかもしれません
人生で他人に期待した事ってありますでしょうか?
私の経験を振り返ると、会社の後輩に期待したことはあります。仕事を覚えてもらって、自分の部署の仕事を一人分背負って欲しいからでした。
応援する選手には、スーパープレーや大記録を見せて興奮させてもらいたいです。
あと親切なことをしたら、ありがとうと言って欲しいですね。
どれも見返りを求めていますね。
期待ってのは大半が見返りを求めた行為なのではないかと思います。
そして、他人に期待することって、めったに無いのではないでしょうか。
ですが、親はどうしても子供に期待してしまうものです。
子供にはいい大学に入って欲しい、いい会社に入って欲しい。
ですが、友人にそういったことを期待するのは馬鹿げています。自分の子供にだけ期待をします。
それは、一生懸命子供の世話をし、服や食べ物を与え、高校・大学の学費・場合によっては生活費まで面倒を見ているからではないでしょうか。
実は、子供が生まれた瞬間、いい大学・会社なんてこれっぽっちも期待していなかったのではないでしょうか。
子供がただ笑うだけで、寝返りをうつだけで、初めての言葉を発するだけで、多くの親は幸せを感じていると思います。
それが夜泣きに起こされ、一生懸命お世話をし、高いゲームやスマホを買ってあげたり、高校・大学に行かせてあげる事になります。
親は莫大な労力と金額を”投資”して子供を育てている訳です。
だから”投資”に対する見返りが欲しくなるのではないでしょうか。こんなに苦労して、こんなにお金をかけたんだから、こうあって欲しい。
親は子供に色々と口を出すものです。
ですがそれは、心配だから言っているのでしょうか、それとも期待からでしょうか。
期待をかけ過ぎるのは止めた方がいいかも知れません。
子供は、親の期待に答える気なんて全くありませんし、実は答える義務もありません。
あんなに高い学費を出して大学に行かせたのに、勉強もしないで遊んでばかりいる、留年した、就活は落ちてばかりだ。
残念ですが、投資を失敗したのかもしれません。ちゃらんぽらんで、ビジョンのない詐欺師みたいな企業に、プレゼンも受けずに投資してしまったのです……。
現代の若者のほとんどは学問をしようと大学を目指していません。大学を出た方が就職に有利と言う面もありますが、大多数は”モラトリアムを過ごしたい”からで間違いないでしょう。
親御さんだって、何でも良いから大学を出させたいという気持ちを持っている方は多いですよね。
それと大学でモラトリアムを過ごしたいと言う子供の利害が一致したために起こる、非常にいびつな社会の闇ではないかとも思います。(あとは大卒優遇という社会の風潮など)
改めてお金に注目すると、大学の学費だけで4年間で何百万円、私立に行かせたり仕送りまでするなら何千万円の大金がかかるでしょう。
私は子供はいないのですが、将来、子供を進学させる時が来たら、投資の前に”審査”をしようと思いますし、親御さんにもオススメします。親も子供も数百万、数千万円の出費をもっと真剣に考えるべきではないでしょうか。
中学2年生くらいで高校に行きたいか、なぜ行きたいのかを聞きましょう。
理由は、周りもみんな行くから、行くのが当たり前だから、成績が良いから、と言った予想です。
そこで、高校からは義務教育じゃないこと、お金がかかることを教え、一年後までに進学したいという強い意志と説得力のある理由をプレゼンしてもらう事にします。
ここで説得されないとお金は出さないと言うことですね。
その歳で、進学の強い意志と理由が考えられれば、期待以上というわけです。
まだいもしない子供に期待してしまいました。しかし期待を上回ってもらってから投資をするのですから、大失敗するリスクは減らせるかもしれません。
私の経験ではありますが、将来のビジョンを若いうちから考える事は大学に行くことよりも大事であると確信しています。
私はなまじ成績は良く、将来のビジョンがないままモラトリアムで大学に行きました。興味もないのに、就活に有利な学部を選びました。給料の良い会社にも入社できたのですが、仕事は面白くありません。
そこで人生の意味、幸せとは何か、何を仕事にするか、と言ったことを考え直すことになりました。
大学なんて出ていなくても、高校を出た時点で人生のビジョンや、将来やりたい仕事をある程度考えている人をとても尊敬しています。
私は社会人になってから、何となく生きることを止め、レールに乗って生きることを止め、人生の軌道修正を図りました。
中学・高校を卒業し、進路を決めるときに、朧気でもそういった何かを真剣に考えられる子供になって欲しい、育てたいと思います。
期待という話に戻しますが、私の尊敬する祖母が「勉強なんてできなくても、人に迷惑をかけずに生きていたらそれでいい」と言っていたことを良く覚えています。
つまり、ほとんど期待していない訳ですね。
祖父母は孫に対して責任がないので、労力をかけて世話をすることも無ければ、大金を出すことも無いという見方もできます。
祖母も、孫ではなく子供には、色々な期待を押し付けて、口酸っぱくあれこれ文句を言っていたのかもしれません。
ですが、もしかしたら孫が生まれて、子供に最初は何も期待していなかった気持ちを思い出したのかもしれません。
笑顔でいるだけで、言葉を発するだけで、生きているだけで素晴らしいという瞬間を、もう一度実感したからかもしれません。
”世界二つ目”の音楽漫画『PPPPPP』1話感想 音がない漫画の演奏シーンから音楽が伝わってくる!?
私が知る限り、まだ世界には二つしか音楽を漫画化した作品はありません……。
音楽を題材にした名作漫画は、すでに世の中にたくさんあります。
『BLUE GIANT』『のだめカンタービレ』『青空エール』『心が叫びたがってるんだ。』『いつもポケットにショパン』『BECK』
私が読んだことがあって、すぐに思いつくのはこのあたりです。
いずれも面白い作品で、特に青空エールは何度も号泣しました。
ですが、批判を覚悟であえて言いましょう! これらの作品は全て、音楽を漫画化した作品ではありません!
もう一度、断っておきますが上記の5作はいずれも面白いです。
ですがひとまず、BLUE GIANT 1巻のとあるシーンを見てみましょう。
画力・表現力ともに申し分ないですね。サックスの音圧が伝わってきそうな迫力と申しておきましょう……。
主人公の宮本 大はこのとき高校生で、ジャズの魅力にはまりサックスのプロ奏者を目指していく、という物語です。
そして巻数が進み、大は音楽の盛んなドイツ・ミュンヘンへ乗り込み、現地でバンドを組み、ライブを重ねていきます。その時のワンシーンがこちら。
画力・表現力ともに申し分ないですね。サックスの音圧が伝わってきそうな迫力と申しておきましょう……。
いや、ちょっと待ってください……1巻の表現から何か変わりましたか? 具体的に、明確に何か進化しましたか?
そうです。
漫画超大国、最先端の日本であっても、音楽漫画の演奏シーンはほぼ同じです。(超失礼を承知で申し上げます)
演奏者、楽器、演奏する動き・ポージング・表情、音符、音圧など表現方法はこんなところでしょうか。
私はことエンタメに対しては薄情です。「演奏シーン全部似たようなものじゃん」と認識しています、飽きています。演奏シーンに関してはとたんに読み飛ばしています。
当たり前ですが、漫画から音は聞こえてきません!
そうです……悲しいことに漫画で音楽を表現することは出来ないのです……。
私は必ずしも漫画より、アニメ・映画の方が優れていると言うつもりはありません。
ですが、こと音楽漫画に関しては、映像化して実際に音楽を乗せると演奏シーンの迫力が桁違いに変わってきます。
……漫画で音楽を表現できないと言いましたね。
私が知る限り、世界には今まで一つだけ、音楽を漫画化した作品がありました。
そして今日、二つ目の作品がこの世に生誕し、高らかに音楽を奏であげました。
それは、どちらも世界最先端の漫画雑誌、週刊少年ジャンプで生まれた作品です。
私は非オタの友人にジャンプ作品を紹介するとき、「日本のジャンプはアメリカでいう所のハリウッドのようなものだ」と主張しています。
昨今の『鬼滅の刃』の社会現象を思い出していただければ、言わんとしていることは分かりますでしょうか。
ここからネタバレありで1話の感想を書いていきます。ネタバレを見たくない方はお引返し下さい。
ある日、7卵生の7つ子が誕生しました。
7つ子たちは、世界三大音楽コンクールをやすやすと全制覇したピアニスト・音上楽音(おとがみがくおん)の子供で、その内の6人は天才6つ子ピアニストとして中学生ながら世界で活躍し始めています。
主人公のラッキーは兄妹の中でただ一人の凡才でした。父の楽音からは見捨てられますが、母ちゃんだけは庇ってくれます。
楽音と母ちゃんは子供の扱いをめぐって離婚します。6人は楽音についていき、ラッキーだけ母ちゃんに付いていきました。
ですが母ちゃんはその後 病気で入院し、ラッキーは意地悪な叔母に引き取られ、シンデレラばりに悲惨な生活を送っているのですが……。
という導入です。
そこからミステリアスなヒロイン(?)が表れたり、再びラッキーが音楽と向き合ったり、音楽学校の入試試験で演奏を披露したり、というのは詳しくは書きません。
大事なのは、この作品は音楽を漫画化している、ということです。
1話では二つの表現がありました。
ラッキーが学校の廊下を歩いていると、階段の上から音楽が聞こえてきます。それはヒロイン(?)が7つ子の一番上の長男の演奏をスマホから漏らしているものでした。
どういう表現をしているかと言うと、ただの階段が、皇帝に謁見する玉座、そこに向かう階段に変わります。
荘厳な宮殿、一面のステンドグラス、玉座に堂々と座る皇帝、階段にずらりと整列する家臣たち。
おまけのアクセントとして学校と王宮をつなげる”階段”は、神秘的にピアノの鍵盤模様が施されています。
さらにこの曲は、モーツァルトのピアノ協奏曲26番、実際に神聖ローマ皇帝レオポルト2世の戴冠式で演奏された曲なんだそうです。
そうだよ! 私だって音楽漫画の演奏シーンで驚きたいし、感動したいんだよ! 私だって音楽は好きだよ!
このシーンをまだ見ていない人は、文章だけでなく是非 漫画で見てください!
二つ目の表現は、音楽と再び向き合うことを決めたラッキーが、音楽学校の入試試験で演奏するシーン。ラッキーは思い出深い『きらきら星変奏曲』を弾き始めます。
その時、試験官の一人は以上を察知する!
ふ、風景が変わった!? ラッキーの周りに6人の子供たちが群がっている。
自分は無機質な机に座っていたはずなのに、いつの間にかシックな机に変わっていて、身に覚えのないマグカップがおかれている。
それを恐る恐る口にして「…え――飲めんぞ コレ」
じゃねーよ! ナイスリアクション!
子供の一人が戸惑う試験官に気が付いて「なあに? ママ」と話しかける。
という所で元のシーンに戻りました。
このシーンをまだ見ていない人は、文章だけでなく是非 漫画で見てください!
音楽の演奏シーンで、漫画で、誰がこんな表現をできますか?
映画やアニメでは、音としての音楽があるため、あえて絵で音楽を表現しようと言う発想に中々至らないでしょう。
これは唯一無二、この作者のマポロ3号さんにしか出来ない表現です。
単純な画力で言ったら、『PPPPPP』は『BLUE GIANT』に及ばないでしょう。おそらくマポロ3号さんはこれが初連載の若手作家だと思われます。
ですが私は「ああ、これでまた、漫画で音楽を賛歌することが出来る。この驚きと感動を久しぶりに味わえる」と喜びに打ち震えました。
週刊少年ジャンプを購読していないものの、その驚きと感動を味わいたい人は、すでに完結済みの”超視覚型”吹奏楽漫画『SOUL CATCHER(S)』をオススメします。(いつかこっちもレビューします。)
今週のアンケート1位はもちろん『PPPPPP』
最後に二つ。
頼む、母ちゃん死なないでくれ!
そして頼む、打ち切られないでくれ!
憂鬱な月曜朝にオススメのヒーリング・ソング ヒゲドライバーの『大したことじゃない』
社会人のみなさん、おはようございます。
多くの人にとって憂鬱な月曜日の朝が来てしまいましたね。
狂った現代社会に絶望していませんか? 圧殺されそうなほど、狭く苦しくありませんか?
そんなときにオススメしたいのがヒゲドライバーさんの『大したことじゃない』という歌です。
現代社会で夢も希望もなく、自分を変えなきゃいけないと分かっているのに、疲れ果てて努力をする気力も湧かない。
なんでこんなにも苦しいんだろう? なんでこんなに無理してまで生きているんだろう。
そんな時、ふと考えてしまいませんか? 本気じゃなくても、〇んでしまいたい、と。
そんな歌詞なのですが、そこからクライマックスにかけて全てをひっくり返す光の歌でした。
勝手な感想ですが、少しスピリチュアル的な人生を賛歌する、祝福するような雰囲気を感じました。
音楽で人生を祝福するというと映画『サウンド・オブ・ミュージック』、スピリチュアル的に人生を全肯定して向き合うという意味では滝本竜彦さんの『ライト・ノベル』もそのうち紹介してみたいです。
上記の作品がお好きな方にもオススメの歌です。
『宇宙よりも遠い場所』の1話感想 『ガルパン』『ウマ娘』『ゆるキャン△』との共通点とは
直感に導かれて2018年放送の『宇宙よりも遠い場所』を見始めました。
きっかけはヒゲドライバーさんの『大したことじゃない』という歌にとても感動して、彼の楽曲をあさっていたところ『宇宙よりも遠い場所』のEDテーマ『ここから、ここから』に出会ったからです。
ネットの評判が非常に良く、「全話神回」だとか「毎回が短編映画」とまで言う人もいるようです。
なにより、あらすじを読んでビビビッと来ました。
ですが、その前にタイトル『宇宙よりも遠い場所』で、それはどこなんだろうと想像してみてください。
ちなみに私が真っ先に思いついたのは深海でした。
あらすじは旅に出たいと思いながら勇気が出ない臆病者、行方不明になった南極観測員の母を追う娘、大きいことがしたいフリーター、友達のいなかったアイドルの4人組が、南極を目指す青春物語です。
何となく面白そうな予感がしました。
南極というのが渋い、宇宙よりも遠いと言われても納得できます。南極冒険をテーマにした作品はほとんど見たことがなかったので意外と新しい、どんなところなのか知りたい。
それに硬派な匂いを感じます。女の子4人が主人公ですが、南極が5人目の主役なのは間違いありません。
スタッフはきっと可愛い女の子よりも、美しい南極の景色に力を入れてくれることでしょう。
私は非オタの友人にアニメを紹介するとき、『ガールズ&パンツァー』の主役は女子高生でなく戦車、『ウマ娘』の主役はウマ娘でなく史実の名馬や名レース、『ゆるキャン△』の主役は女子高生でなく富士山だと伝えています。
さすがに言い過ぎかもしれませんが、これらの作品はいずれも女の子以外のテーマに並々ならぬ愛情を注いでいる、非常に熱い作品なのです。それと似た匂いを感じました。
ここからネタバレありで1話の感想を書いていきます。ネタバレを見たくない方はお引返し下さい。
主人公のキマリは平凡で変わったことなど何もしたことがない高校生の女の子。ですが何もしていない自分を変えようと、”何か”をしようと思っています。
友人のめぐみに相談し、キマリは今住んでいる群馬からとりあえず東京に明日出てみると宣言します。
次の日、キマリは初めて学校をさぼって旅に出ようとします。制服で出かけるけれど、駅に着くと鞄の中に入れていたショートパンツとパーカーに着替えて準備は万端。
めぐみも学校の先生に嘘をついてくれたり、旅先で一泊することになったら口裏を合わせてあげると言ってくれ優しい子だと分かります。
そしていざ改札を抜け「学校の反対方向の電車に乗り」というモノローグが入ります。
いやー、私も社畜時代、朝の電車を何度、反対方向に乗ってみようと思ったことか。
社畜時代は東部東上線という沿線の周りに住んでいて、会社に向かうには池袋行きですが、反対方向は森林公園行きなんですよ。なんですか森林公園って、会社よりそっちに行きたいに決まっているじゃないですか!
そして旅が始まる! という所でキマリは反対方向の電車を見送ります。
おいいいいい!? そしてキマリは何事もなかったかのように教室に行きめぐみとおしゃべりをします。
キマリは何かが怖かったのだと言います。そう、とんでもない意気地なし、勇気が出ず何かを恐れて”何か”を変えることが出来なかったのです。ヘタレです。
ちなみに私は数年間さきほどの会社に勤めていましたが、ついぞ森林公園行きの電車に乗ることは出来ませんでした。
そして何やかんやあって、南極を目指す少女しらせに出会います。彼女の母親は南極観測員でしたが行方不明になっていて、そのことが南極行きへの強い動機になっています。
しらせは周りから南極なんて行ける訳がないとばかり言われ、変人扱いされたり馬鹿にされたりしています。
ですが、周りに何と言われようが決意は変わらないし、南極へ行くための資金繰りにバイトと貯金を頑張っています。
そんなしらせの意思の強さに感化されて、めぐみは応援します。「なにか手伝えることはない?」と聞くと「じゃあ、一緒に行く?」と返されます。
しらせのセリフと共にモノローグが始まり「前にもそういうことを言ってくれた人がいた、でもみんなすぐいなくなるの」「やっぱり無理だとか、友達に止められたとか、”怖くなった”とか」「それが普通なんだと思う、だって高校生だし、学校言ってるんだし、友達もいるんだし」
それに対しキマリは「違うよ、私はそんな簡単な気持ちで言ったわけじゃ無くて」と答えます。しらせはパンフレットを差し出して「船の下見、次の土曜ここにきて、そしたら本気だって信じる」と返します。
ん? 南極に行く本気の確認に船の下見? それって簡単すぎじゃない? と私は思いました。船の下見についていくだけで南極計画の片棒を担がせてくれるなら私だって行きますよ、と。
パンフレットには砕氷艦”しらせ”の一般公開のものでした。
場所は……広島県呉市……主人公が住むのは群馬県です。冒頭では群馬から東京に行く旅すら怖くて止めてしまいました。
そうです。普通の高校生には、船の下見に行くだけで、本気の証明になるでしょう。
森林公園行きに乗れなかった私は号泣しながら、このシーンを見ることになりました。
『ウマ娘 Season 2』の2話を見て号泣し、まさか2話で泣くとは……と驚愕し、先の展開への期待を膨らませた私ですが、まさか1話で泣くことになるとは夢にも思いませんでした。
そしてなんと、ここまで語って私、まだ1話しか見ておりません!